第23回 炊事洗濯家事育児

 

第23回 炊事洗濯家事育児

 

 中学生くらい年代の子供たちに、仮想授業みたいなものをするという仕事がきた。時々あるのだ、こういう仕事。そういえばこの間は、実際に顔と顔を突き合わせて授業のような講演のような、そんなこともしたのだった。子供たち、私が想像していたよりもずっと素直な瞳で見つめて耳を傾けてくれた。大人向けとそれほど変わらない内容の話に、しっかりついてきてくれていることが表情で察せられてうれしかった。子供たち、かわいかった。

 

きっと日々接している学校の先生や親御さんたちにしたら、大変なことも多いだろうに、たまに出会って、それもおとなしくしていることが暗黙の掟になっているような課外授業の私は、孫がかわいいおばあちゃんみたいな気持ちになった。あんたたちの未来を守るために私は頑張るよっ、鼻息が荒くなった。

 

 ちょっと脱線。私、何が好きといって、保育園児がお散歩に行く姿を見ることが大好きなのだ。車を運転している時に、手を繋いで一列になって先頭真ん中最後尾を保育士さんに守られてたどたどしく歩くあの姿を見かけると、<萌えー>とデレデレ顔になっちゃう。アイドルを見かけた気分になる、心がきゃーきゃーと騒ぐ。ちっちゃい人の列がもう無条件に、可愛くって可愛くって仕方ない。あんたたちのために、おばさんは頑張るよ、地球の未来を守っていくよ、そう思っちゃうのだ。

 

 学校を模した講演仕事を依頼されたある時、私は<家庭科の先生>という立ち位置を与えられて戸惑ったことがある。久しぶりに<家庭科>と言う名詞に接したこともあるかもしれない。確かに私の仕事は料理、それを学校の授業の中にカテゴライズするとしたら<家庭科>だ。でもなんだか物凄くもやっとした。その時私は、具体的な料理を教える訳ではなく、<食>にまつわるいろいろについて話をする予定だったからだ。講演のタイトルも<キッチンの窓を開けて社会とつながる>だった。

 

 で、家庭科。<家庭>に属する何か。そうか、きっと私、<家>の文字に引っかかっているんだな。妻を<家内>という言葉でいうのを聞く時、家のこと=家事は、家にいるべき女の仕事、と言われているようで、もやるのだ。炊事洗濯家事育児、育児はしたことがないけれど私、どれもきっと上手で大好きな仕事だと思う。でもそれを、女の仕事だ、家の中の仕事だ、と押しつけられるのはまっぴらごめん、と思うのだな。<料理の先生>と呼ばれたら、それほど嫌じゃなかったかもしれない。

 

 炊事洗濯家事育児、家の中のことは人間が生きていくためのカナメの仕事だ。だからこそ人間社会の中心にあることなのだ。人がいなかったらものは売れないし、ものは作れない、経済だって当然なくなる。その私たちが食べて寝て暮らして生きていくことこそが経済を回している。家の中に閉じ込めておくことじゃない、社会を構成する、その人間一人づつを支えるのが、家庭だし、その家庭を支えるのが一人づつの個人じゃないか。一人づつの元気が社会を元気にするのだ。

 

 上から<つまり権力を持った側から>こうあるべき、こうすべき、なんて言われたくないよ。憲法と一緒で、私たちが権力を持った人たちの暴走しがちで都合よく押しつけようとしがちな道徳を監視&アップデートしなくちゃな、と思うわけです。なんだか、鼻息荒いかしら。

 

 ともかく。

 

 炊事洗濯家事育児が、人間が暮らしていくときの生活の基礎なのだ、ということを肝に銘じて大事にしていきたい、料理も掃除も好きで楽しんでやっていきたい。

 

 というわけで。<というわけでもないかしら>
中学生たちへ、料理に関して具体的なメッセージがありませんか?といわれて私、そうだとおもいついた。
「若者よ、飯を炊け!」なのだ。
中学生の、それも男子が頭に浮かんでいた。ご飯は誰かに作ってもらう年頃かもしれないし、はたまた様々な事情を抱えて自分で賄わなくちゃいけない子供たちもいるかもしれない。でも、いずれにせよ、ご飯さえ炊ければなんとかなる、そんなふうに思ったのだ。
精米した米は、同量から1.1倍の水を加えて火にかけて、沸騰したら弱火で10分たけば出来上がる。電気釜がなくたって、電気がないところだって、炊ける。そして米が炊けたら、塩さえあればまずはお腹を満たせる。まず、生きていくために、米を炊くのだ!

 

 おむすびやサンドイッチは、コンビニで買うもの、と思っちゃっている人たち、多くないだろうか。おむすびをもう一度、キッチンに呼び戻そうよ。あちちちっ、なんて言いながら、自分の手で、きゅっきゅっと飯を握ろうよ。
うまいよー。力が出るよー。自信がつくよー。
自分で自分を養う、その第一歩が<飯炊き>だ!

 

 

 

 

 

次回は、2022年8月更新予定です。お楽しみに!