第16回 <どうしていいかわからない場合は何もしないでフリーズする?>

 

第16回 <どうしていいかわからない場合は何もしないでフリーズする?>

 

 

 衆院選挙、終わりましたね。10月の私は自分の仕事が忙しかったせいもあって、先月のこの欄にも遅刻し、<選挙に行こう>という話を書きたかったのになぜかトイレの話になってしまい、ゆえに選挙のことが自分の中で燻っているような感じがしていたのです。そんなおり、思想家の内田樹さんが<人はなぜ棄権するのか?>についてTwitterに書いていらっしゃるのを発見しました。

 

 <人はなぜ棄権するのか?>内田さんの仮説は<教育の成果>というものでした。
子供たちは学校で<先生が出した問いに正解する>ことが知性の運用だと刷り込まれる。子供たちは問いと正解を<セット>で記憶することを求められ、問いを出されて正解を知らない場合には<黙ってうつむいている>のがマナーのように、誤答するより沈黙の方が<まし>と教えられる。大人の社会でも同様に、上から下への命令系統に従うことがよしとされる世の中。
<どうしていいのかわからない場合は何もしないでフリーズする>とおしえこまれてきちゃった。けれど選挙は<誰に投票するのが正解かわからない>選択。だから多くの人が、正解がわからない状態のまま、誤答するよりはうつむいて黙っていた方がいいというその習いに従って<棄権>したのだ、というもの。

 

 膝を叩くような気がしました。私たち、正しい答えがあるとどこかで思い混んでいる。そして、正しい答えかどうかわからない場合には、間違った答えを言うよりはうつむいてフリーズする、つまり沈黙する。従順な羊みたいなおとなしさをまとって暮らすすべを学んできたようです。
 でも。生きていく上で遭遇するいろんなことは選挙と一緒で、正解はないのだ。
どれが正解かなんてわからない。正解はないとも言えるし、たくさんの正解があるとも言える。生きていくってことは、ちょっと禅問答みたいな<問い>を考え続けていくって事かもしれない。選挙も然り。

 

 ただここのところ、例えば芸能人のスキャンダルとか皇室の結婚問題なんかには、垂れ流すように意見表明する人がわらわらと湧いてきたりしている。テレビでは街角でマイクを向けられた人がよどみなく自分の意見を言っている。みんなが様々なことに何かしらの意見を持っていることに、私、驚く。どっちでもいい、どうでもいい、ではいけないんだろうか、と思うこともあるのだ。だって全てのことに対して自分の立場を明確にしなくちゃいけないなんて、無理だし逆に忙しく騒がしくなりすぎる。

 

 ちょっとあれですね、アメリカ式のお店みたい。メインはアイスクリームとヨーグルトのどちらにしますか?フレイバーはどうしましょう、ミントそれともシナモン?トッピングもお選びいただけますよ、カリカリのクランブル、またはホイップクリーム?
 あーもーめんどくさっ。
選択の細道に追い込まれる息苦しさに、<選択をやめるという選択をしますっ!>と言っちゃいそうになる。話が飛びすぎているのを承知の上で、若い時の私が選挙に持っていたイメージもこんなだったかもしれないと思うのだ。態度を保留してフリーズするというよりは、大きな枠組みによって作られた舞台から全力で逃げようとする、みたいな感じだったろうか。
そんな若い頃は、選挙に行かなかった、行きたくなかった。

 

 けれど、生きることに正解がないことを骨身に沁みて理解したおばさんになった今は、行儀良くうつむいて大人しくなんかしてられない、と思うようになった。正解不正解なんてもうかけらも気にしない。私が、少しでもいい<これから>を作るんだな、それがこれまで態度保留で流してきてしまった諸々の問題に対しての罪ほろぼしみたいなもんだな。
次に続く若い人たちや子供たちに対しての責任を果たすんだな、と思うようになりました。
今では欠かさず選挙に行く、と鼻息荒く思っております。

 

 

 

 

 

 

次回は、2021年12月中旬更新予定です。お楽しみに!