第1回
普通ってなんだろう?
今月からこのエコデパジャパンによもやま話しのお便りさせていただくことになりました、枝元なほみです。見かけによらず打たれ弱い軟弱者なので、どうぞよろしく、厳しくかつ温かく見守ってくださいませ。
初回ゆえさて一体何を話したものだろうと悩んだ末、<普通>ってなんだろう、を考えてみようと思いました。
私も、そして多くの人たちも「自分は普通の人だよ」と思っている気がするからです。
私、自分の本のタイトルに「今日もフツーにご飯を食べる」とつけたことがあります。3.11の地震と津波と原発事故の後でいろいろなことをぶつぶつと考えつつも、やっぱり人はご飯を食べて生きていくフツーの日々を過ごすのだ、というところに立ち戻りたかったからです。でも、どうしても漢字の<普通>が使えずに、<フツー>というカタカナにしました。そのときは災害やそれに伴う社会の変化に対応する形で、人の基本的な営みとして<普通、フツー>という言葉を使いたかったのでした。
でも。
普通、ってほんとはなんでしょうね。何を指して普通というのでしょう?
そして、その言葉を使うときには「普通じゃない」が存在する訳だけれど、それはそれで、どういうものを指すのでしょう。
例えば食べ物でいうと、
みんなが食べてるようなものを買ってるよ。普通のものだよ。これが人気って言われたらそれも食べてみたいと思うしね、とか
例えば暮らしでいうと、
中産階級だよ、平均的な収入でまあ平均的な家族構成。貧しいとは思わないけど、もちろん金持ちでもない、まあ庶民ですよ庶民、みたいな感じ?
例えばファッションでいうと、
そりゃもちろんそんなにお金をかけられないわけだけど、あんまり目立ちたくないっていうのもあるのよ、浮いちゃいたくないんだもの。
うーん、<普通>、謎です。
でも最近私、思い始めました。私たちの頭の中には<普通>というぼんやりしたイメージがすでにあって、みんな<なんとなく>そのカテゴリーにいれば安心だと思っているんじゃないか。おまけに言えば<庶民>という言葉も多分昭和で終わっているんじゃないか。今はがっつり格差が開いているのに、いまだにみんなしてその<普通>という言葉に縛られているような。なんとか普通でありたい、とそのイメージにすがろうとしているような。私がなぜ<普通>を考え始めたかというと多分、都知事選がきっかけです。みんながどういう選択をして、この結果になったんだろう、と考えたときに、この<普通>という擬似標準値に<なんとなく>従ったんじゃないかと思えたからです。どこがマジョリティの落ち着きどころか、という選び方がなされたように感じました。
でも、もうこの<普通>概念、時代遅れなんじゃないかと感じ始めているわけです。マジョリティで居続けたいと思うことが、変わろうとすることを<積極的ではないにしろ>否定するのではないかと思うからです。
マジョリティの大樹の陰に依って、個々の考えを持たずにいてはもう生存さえ危ぶまれるときに突入してしまったのかもしれない。コロナ禍のもとで暮らすうちにその心配はさらに大きくなりました。
私たち、自分自身で考えることを執行猶予する迷彩柄の<普通>を脱ぎ捨てたほうがいいところまできちゃった、そんな気がしているのです。
次回は、9月上旬更新予定です。お楽しみに!